原文で読むことを課した源氏物語

私は、10年以上も前から、源氏物語を原文で読むことを自分に課して、それを密やかな愉しみとしてきました。そうは言っても、ときには源氏物語を読むことに倦んでしまい、1ヶ月以上ページを開かなかったこともありました。

最初の頃は、「桐壷」は古語辞典を片手において、古語の意味が分からなければ、その都度辞典で調べ、品詞分解もしながら動詞・助動詞・形容動詞などの活用を考えながら読んでいたので、一日に数行しか読めないこともありました。さらに、敬語も最初は尊敬・謙譲・丁寧語の区別がつかず、そんな状態でしたから、遅々として捗りませんでした。

現在は、やっと「乙女」までたどり着きましたが、よく言われる「須磨返り」はなんとか克服しました。須磨・明石の土地を自分の目で見ようと、実際にそこを訪ねたこともあり、源氏物語に愛着が湧いたのかもしれません。何より物語の舞台になっている京都の街に私が住んでいることも源氏物語を身近に感じることができる要因の一つです。

いろんな作家が現代語訳を出版していますので、どれかを読んでしまえばと終わるよと誘惑にかられることもありましたが、紫式部が生きた時代を味わうには、原文で読まなければならないと自分に言い聞かせました。

小林秀雄さんも「本居宣長」を書いている時に、どうしても源氏物語を原文で読む必要があり、6ケ月原稿を書くのを中断しています。その時に「現代語訳で読むような怠惰なことはできない」と編集者に言ったそうです。

私は、古今集新古今集が好きで、いつも近くに置いておいてページをめくっています。和歌については、源氏物語では800首近くが詠まれていますが、その場面場面で読まれる和歌がとても大きな意味をもっていると思います。ですから、1首ごとに和歌を大事に読むこともあり、時間がかかってしまうのかもしれません。

もののあはれを知る」には和歌も大きな要素です。

あと5年ぐらいで源氏物語を読了したいと考えています。乙女の次は、いよいよ玉鬘十帖に入り、光源氏から登場人物が代わってゆきますが、宇治十帖まで、時間をかけてゆっくり読んでゆきたいと思います。最後までのあらすじは大体わかっていますが、物語としての展開はもとより、登場人物のこころの襞に分けいって味わいながら読みすすめてゆければと思います。

これから、源氏物語の章ごとの読後感をここで書いてみたいと思います。