京都府立図書館
最近、週に3日は岡崎にある府立図書館へ行っています。
私の家にがある嵐山から93系統の市バスに乗って、丸太町通りを東に向かうと30分ぐらいで平安神宮近くのバス停に着きます。バスを降りて、岡崎通りを動物園に向かって歩き、京セラ美術館を右折すると府立図書館が見えます。
ここはやはり、府立図書館だけあって、書籍数が相当あります。1階の源氏物語のコーナーだけでも一つの書架を埋め尽くしており、地下には、専門書がたくさんあり、私の好きな美術関係の画集が揃っています。他にも仏教関係の書物や歴史書なども豊富にあり、書架にないものは、パソコンで検索して蔵書にあれば、地下から図書館の方が持ってきてくれます。
ここで、1〜2時間過ごすと、図書館を出て、近くに最近出来たロームシアターの3階に行きます。ここにロビーがあり、1階にある蔦屋書店が新刊を陳列しており、これらを見ることができます。1階にあるレストランからコーヒーを持ってきて、ここで飲むこともできます。ここにはクラッシクの演奏を聴ける大ホールがあり、小澤征爾さんが監修している歌劇が近々に行われますので、私も聞きに来ようと思っています。
ここからは、南禅寺から永観堂を通り哲学の道を散歩でき、岡崎神社から金戒光明寺、真如堂にも歩いて行けます。もちろん、平安神宮の裏にある神苑では、もうすぐ満開の桜を見ることができます。
嵐山からバス一本で行ける岡崎には、見所がたくさんあり、おすすめです。
憧れのイタリア
私の愛読書の一冊に、澤木四方吉著「美術の都」という本があります。若い頃に、たまたま古本屋さんで見つけて購入してから、ときどき、この本を読んでは、私の憧れの地イタリアのローマ、フィレンツェ、ミラノ、ベネチア等を訪ねることを夢想します。この本は、作者が大正時代にヨーロッパへ留学してイタリアの町やパリ、ミュンヘンの都市と美術について瑞々しい感性で記した紀行文集です。
若い頃から、ヨーロッパの絵画で特に好きだったのがルネッサンス期の画家で、ダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロはもちろん、フラアンジェリコやフィリッポリッピ、マンテーニャ、マザッチオなどの画家の絵画を眺めては、イタリアへ行くことを楽しみしていました。先月末で、会社を定年退職したので、イタリアへ行くことが可能となったのですが、世界的なコロナ禍で、なかなか実現できそうにありません。
著者は、フィレンツェへの思い入れが強く、まず、フィレンツェを訪ねたなら、真っ先に、サンタ・クローチェ教会でジオットのフレスコ画「フランチェスコ伝」を見ることを勧めています。そして、次にアルノ川に架かるベッキオ橋を渡り、サンタ・マリア・デルカルミネ教会でマザッチオの「楽園追放」を見て、そこから、ウッフィツイ美術館、サン・マルコ美術館、アカデミア美術館等々、まさに街自体が美術館の様相を呈しているフィレンツェの建築物、絵画、彫刻を隈なく見ることを強く読者に訴えます。
フィレンツェの絵画や彫刻を愛している人ならば、この本を読めば、誰でもすぐにフィレンツェに行きたくなります。しかも、フィレンツェの次に、ローマ、ミラノ、ベネツィアなど訪ねたい街はたくさん控えています。
今年中には、イタリアへ行くことを、絶対に実現したいと思います。
七五三(しめ)の若松

お正月らしく元旦に生花をしました。未生流では七五三(しめ)の若松と言って、昔は元旦に限られて活けられたそうです。
金銀の水引は「相生結び」と呼ばれています。
この前、活け花の本を読んでいたときに、こういう文章がありました。
「古い花伝書には、古今和歌集や和漢朗詠集のこころを以て花を活けるべきである」 古今和歌集の仮名序には、和歌は天地を動かし、目に見えぬ鬼神をあはれと思わせ、男女の仲を和らげると書かれていますが、活け花も人を楽しませるだけではなく、歌のこころ、すなわち「幽玄」や「あわれ」を見る人のこころに感じさせるようにしなければならないとの意味だと思います。
古今和歌集には、例えば秋の花として「菊」「桔梗」「女郎花」「藤袴」「撫子」などが詠まれています。これらの花は平安時代から人々のこころを捉えて歌のなかに読まれていったのだと思います。
私も、生花をするときは、まず花を手に取り、花と会話をして、花がどのように活けて欲しいのかをこころで聞くようにしています。
京都移住について
私は、現在神奈川に住んで、東京にある会社に勤務していて、平日は神奈川にある家から会社に通勤して、週末に京都に来ています。こう話すと、人から羨ましがられたり、金銭的に余裕がある生活をしているように思われますが、そんなことはなく、私は平均的な会社員の生活レベルだと思っています。
京都に借りている家の毎月の家賃や、家具や食器などを揃えたりするには、ある程度お金はかかり、神奈川と京都を往復する交通費も必要ですが、例えば交通費は、コロナの現在は新幹線を利用していますが、以前は割安な深夜バスを使っていましたし、生活費は神奈川にいても京都でも同じく掛かります。
京都に住んでいるというと、月に何回かは料亭で食事をして、毎日寺社仏閣を回り観光して優雅に暮らしていると思われがちですが、京都の方は葵祭や五山送り火などの特別な日に贅沢する以外は、実に質素に暮らしていて、私も同様なのです。
友人知人が京都に来たときは、少し値段が高いところで食事をしますが、普段の日は神奈川にいるのと変わらない生活をしています。寺社仏閣も特別公開などがあれば訪ねるくらいです。桜や紅葉の季節には特に入場料や拝観料が必要なときもあります。
私が京都に家を借りたのは7年前ですが、当時は毎月京都に観光に来ていて、宿泊費をその都度払うくらいなら、いっそアパートかワンルームマンションでも借りた方が、割安になり予約の面倒もなくなると考えたからでした。
最初は御所近くのワンルームマンションを借りましたが、頻繁に訪ねていた嵯峨野嵐山に一戸建てを借りても、そんなに家賃は変わらないことに気付き、今の家に引っ越しました。
会社を退職すれば、すぐに京都に完全移住するつもりです。神奈川の家は子供夫婦に渡して、将来、もし神奈川に戻って来たときは、同居するかどうかは考えたいと思います。
妻も、今は独り暮らしの母親と同居して、自分のやりたいことを楽しんでいます。
京都での生活費は、年金と京都でパートなどで働くお金で賄えると考えています。なにか事業をするのもおもしろいかもしれません。
神奈川にいても、週末は大好きな京都に行けると考えると楽しみになり、生きる張り合いもでて来ます。
皆さんには、無理に進めませんが、多少行動力があれば、日常から少し離れた暮らしができることを知ってもらえればと思います。
嵯峨野厭離庵の紅葉
祇王寺の紅葉
澁澤龍彦さんと奥様のこと
澁澤龍彦さんがお亡くなりになって30年以上経ちます。フランスのサド公爵を日本に紹介した仏文学者として澁澤さんは名高い方ですが、学生時代から澁澤さんの愛読者だった私は、澁澤さんが書かれた書物はほとんど目を通しています。闘病中に書かれた高岳親王航海記は涙なしには読むことができなかったことを今でも思い出されます。
澁澤さんがお住まいだった家が北鎌倉の円覚寺の裏手にあり、澁澤さんが亡くなられた後に、澁澤さんの家を訪れた私を、澁澤さんの奥様は嫌な顔することなく、家にあげてくれて、澁澤さんの膨大な書物で囲まれた書斎を見せていただきました。
私がとりわけ澁澤さんから影響を受けたのは絵画です。シュールレアリスムに属する海外の画家の絵を紹介していた澁澤さんによってマックスエルンストやポールデルボー、ミロ、フィニーそして今でま大好きなバルチェスを教えていただきました。
日本画家では、大ブームを引き起こした伊藤若冲は、今から40年も前に澁澤さんは奇想の画家として美術雑誌に紹介していました。その影響で、私も相当昔に若冲の24幅の動植綵絵を二度見ています。
先日、久しぶりに北鎌倉を訪れた時に、偶然に犬を散歩させていた奥様とお会いしました。夫人は私を覚えていてくれて、現在私が京都の嵐山に住んでいると話すと、夫人は、先日嵐山に新しく建てられた福田美術館に若冲を見に行かれたことをお話しされました。
実は、京都に私が住むようになったのは、多少澁澤さんの影響があるのです。澁澤さんご夫婦も京都を深く愛されていて、年に一回はご夫婦で京都に出掛けて、そのことをエッセイに書かれたのを私は読んでいて、澁澤さんご夫婦が訪ねた寺などを私も訪ねたりしているうちに、毎月京都へ行くようになり、京都に住みたくなってしまったとも言えるのです。
そのようなことを夫人と会った時にお話しをして、次に夫人が京都に来られるときは是非私に京都を案内させてくださいとお願いして別れたのでした。
北鎌倉にある円覚寺
澁澤さんが眠る浄智寺
藤原定家 嵯峨山荘
わが国の中世を代表する歌人として名高い藤原定家が、嵯峨野の山荘で、宇都宮頼綱から依頼されて古来からの歌人の歌百首を撰んだと言わています。
定家の山荘時雨亭は、嵯峨野にある常寂光寺、二尊院、厭離庵のどこかにあったと言われていますが、ここという確証はないようです。
常寂光寺の山荘の石碑

厭離庵の定家の石塔

白洲正子さんは、「私の百人一首」で定家の山荘跡は二尊院の東で落柿舎の北に当たる一郭にあったのではないかと推理しています。
私は、竹林を歩いて野宮神社を経て、常寂光寺、二尊院まで嵐山を眺めながら歩くのが好きですが、いつも立ち寄る長者の森の中に百人一首ごとの歌碑がいくつか並んでおり、
その中に式子内親王の有名な歌「玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることもよはりもぞする」の歌碑が二尊院近くにあます。
写真の先が、白州さんが考える定家の山荘ではないかと思います。。
定家と式子内親王はそれぞれが想い人であったのではないか言われており、お能でも「定家」という謡曲で、定家が死んでからも内親王への想い故に、自らが蔦葛となって式子内親王の墓にまとわりついて内親王を苦しめるいう物語がつくられました。
多分、式子内親王の歌碑を建てた方は、そのような関係を考えて定家の山荘跡に向かって内親王の歌碑を建てたのだと私は想像しています。少しロマンチックな場所設定だと思わないですか?
こんなことを想像して、毎日嵯峨野を歩いています。京都市内の上京区に、式子内親王のお墓があり、定家葛がその墓石に実際にまとわりついています。今度、お能の詳しいお話と一緒に内親王のお墓のことを書きたいと思います。
お能について思うこと
私は、13年間ほど東京の青山にある能楽堂に通い、お能の稽古をしていました。お能を習い始めたきっかけは、実家の近くに能面打ちをされている方がいて、父親と懇意にしていたため、私もその方の家を訪れて能面を若い頃から見ていたことが影響しています。その後NHKの教育テレビでお能の番組を見るようになり、たまたま私が住んでいる家の近くの自然公園で沼地に能舞台を作り、そこで初めて薪能を見て、幽玄な世界に感動して、その時に演目のシテ方を演じていらっしゃた能楽師の先生に連絡を入れて、先生が活動の拠点にしていた青山能楽堂に月に3回稽古に通うようになりました。
稽古の初めは、誰でも習う「鶴亀」から謡いの節を覚え、そのあとに仕舞の稽古をします。謡いは先生が最初に一節を謡い、それに続いて私が謡う形で行いました。仕舞いも同様です。
13年間の稽古の感想は厳しかったの一言です。本来稽古事は厳しいのは当たりまえですが、お能の稽古は、一切の妥協は許されず、先生の謡いと仕舞いが同じようにできるまで何回も繰り返して行います。謡いの一節ができるまで何回もやり直しをさせられます。月3回青山に通うことが、本当に憂鬱で辛かったことが思い出されます。
それならやめれば良いと思うでしょうが、13年間続けられたたのは、お能の世界に強く惹かれるものがあったからです。年に2回、先生のお弟子さんが能舞台で発表会を行います。私も日頃の稽古の成果を能舞台の上で発表しました。出番前の緊張感は相当なものでした。入場は無料ですが先生がいろいろなところにお知らせをしているので観客は数十人の方は来ていました。
役者が公演のときに舞台裏で自分の出番を待つ緊張感が私には理解できました。いざ舞台に上がると、なんとも言えない心地良さがあり、終わったあとの爽快感は格別なものがありました。役者さんが舞台に一度上がると病みつきになるのはわかるような気がします。ただ、舞台に上がるまでは相当厳しい稽古が必要です。
お能は伝統芸能と言われ、京都で観阿弥・世阿弥親子が室町時代に今の様式に作り上げましたが、それ以前にも猿楽として大和で演じられていて、そのルーツを辿ると日本の芸能の原型が見出されます。能にして能にあらずと言われる「翁」は舞われている姿を見ているとなんとも形容できない感動が呼び起こされます。
今週、奈良の斑鳩の里を訪れましたが、龍田神社に石碑があり、今の能楽5流派のひとつである金剛流が大和猿楽坂戸座の流れをくむことが書かれていて、とても興味深いものがありました。


次回から、もう少しお能の話を書きたいと思います。