藤原定家 嵯峨山荘

わが国の中世を代表する歌人として名高い藤原定家が、嵯峨野の山荘で、宇都宮頼綱から依頼されて古来からの歌人の歌百首を撰んだと言わています。

定家の山荘時雨亭は、嵯峨野にある常寂光寺、二尊院厭離庵のどこかにあったと言われていますが、ここという確証はないようです。

常寂光寺の山荘の石碑

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厭離庵の定家の石塔

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白洲正子さんは、「私の百人一首」で定家の山荘跡は二尊院の東で落柿舎の北に当たる一郭にあったのではないかと推理しています。

私は、竹林を歩いて野宮神社を経て、常寂光寺、二尊院まで嵐山を眺めながら歩くのが好きですが、いつも立ち寄る長者の森の中に百人一首ごとの歌碑がいくつか並んでおり、

その中に式子内親王の有名な歌「玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることもよはりもぞする」の歌碑が二尊院近くにあます。f:id:teikakyou:20211205123225j:image
写真の先が、白州さんが考える定家の山荘ではないかと思います。。

定家と式子内親王はそれぞれが想い人であったのではないか言われており、お能でも「定家」という謡曲で、定家が死んでからも内親王への想い故に、自らが蔦葛となって式子内親王の墓にまとわりついて内親王を苦しめるいう物語がつくられました。

多分、式子内親王の歌碑を建てた方は、そのような関係を考えて定家の山荘跡に向かって内親王の歌碑を建てたのだと私は想像しています。少しロマンチックな場所設定だと思わないですか?

こんなことを想像して、毎日嵯峨野を歩いています。京都市内の上京区に、式子内親王のお墓があり、定家葛がその墓石に実際にまとわりついています。今度、お能の詳しいお話と一緒に内親王のお墓のことを書きたいと思います。